このページは、松永会計事務所新聞の「所長のダンディコラム」を掲載しています。
平成28年 |
母が逝ってから三十数年。私も間もなくその齢を迎える。 焼津の商家から職業軍人である父に嫁ぎ、父亡き後に5人の子供を抱え、終戦(私の中では敗戦である)後の混乱期を乗り越えた母が、小学生であった私に対して繰り返した云った言葉である。 「己に恥じぬように活きよ」と受け止め、生涯の戒めとしている。
『資治通鑑(シジツガン)』が出典で、正しくは【天知る。地知る。我知る。子(ナンジ)知る。何(ナン)をか知る者無し謂(イ)わんや】である。 大意は「天も知っている。地も知っている。私も知っている。君も知っている。それなのに、どうして知っている者がいないと言えるか」であり、他人の目が届かないことをいいことに不正行為を働いても、必ず悪事は露見することを教える有名な言葉である。 後漢(現在からは2100年ほど前)の政治家楊震(ヨウシン)が地方へ赴任する途中、出迎えた任地の有力政治家が夜半を過ぎ頃「今宵は闇夜。月の光もありません。誰にも気づかれる心配がありません。お受け取りください」と金子を差し出した。 その時に楊震が賄賂をはねつけて言った言葉がこれである。
別典『後漢書』の「楊震伝」では 地 が 神 に替わり【天知る。神知る。我知る。子知る】と なっているが、いずれにせよ大切なのは 我知る の一言である。 他人はさておいても、この私が許さないという態度が世を正す根本となると知るべきである。
ここまで書いて気づいたことがある。事務所内で職員諸君の「これくらいは・・・・」「この程度は・・・・」との言動があった時、あるいは業務処理上で見受けられた場合、ひどく気になり、時にはこれを咎めていることである。まことに 幼小期における親の教えは人格を形成する。と・・・
コーポレート・ガバナンスの主権者は誰か。という命題は、「会社(企業)は誰のものか」という問いかけに置き換えられ、繰り返し議論されている。我が国の法律(会社法)上では、① 出資者である株主が取締役の選任権を持ち、最終的に会社の運営を支配していること、② 会社の事業活動によって生まれた利益は株主に帰属する。の2点から、会社の所有者は株主であるとされているのだが、世の中の多くの人はどう思っているかは別。 少々古い時代の話で恐縮だが、1990年代に西側国の経営者を対象に行った『企業の所有者は株主』それとも『企業は利害関係者全体のものか』との二者択一アンケートがある。日・米・独3国経営者の回答割合は下記の通り。
日本 アメリカ ドイツ
株 主 3% 76% 17%
利害関係者全体 97% 24% 83%
アメリカでは多くの人が企業は株主のものである。との一元的所有イメージが持たれている。これに対してドイツは、企業は株主と従業員のものとする二元的所有のイメージ。 日本は 従業員・株主・取引先・消費者・さらには地元の市民など社会全体のものという多元的な受け止め方が強い。それぞれの国民性や制度設計に基づくことと思うが、20年余りを経過した現在でも3国では この色合いは継承されているように思われる。 但し、企業を社会的存在として評価する傾向が強くなっているのは3ヶ国に共通する。
(復習)コーポレートガバナンスとは何か。 企業の不正行為の防止と競争力・収益力の向上を総合的にとらえ、長期的な企業価値の増大に向けた仕組み。目的は (1)企業不祥事を防ぐことと、(2)企業の収益力を強化することという2点にあるとされている。また、それらを投資家と社会全体の視点から見届けようとする仕組みでもある。
世の中(社会)が必要とするモノ(財やサービス)を生み出すのが企業の本質。 モノが社会に受け入れられれば売上となるが、受け入れるか否かを決めるには社会の側。 良いモノだと信じて送り出しても社会に受け入れてもらえなければ売上は生まれない。 日本の家電業界が凋落したのは社会の欲求のどこかを読み違えた結果だと思う。それは世界を相手にする大企業だからと思う勿れ。 情報社会の進化で世界は小さくなり、反比例して企業を取り巻く世界は広がり続ける。世界を相手に事業する中小企業も多くなる時代になりました。 我が社にもそのチャンスはあると思うのが経営者。あなたも密かに世界を相手にするわが社を夢想したことはあるでしょう。
社会には良い形で成長を続けてもらいたい。社会の健全な成長こそ企業が永続するための最低条件となるからで、コーポレートガバナンスはそのための仕組みです。 世の中(社会)との調和がなければ企業は、成長は愚か存続さえも危うくなる時代に入りつつあります。
松永会計の『会議方式』は企業に社会の風を入れるための方策の一つとして30余年前に取り組み始め、幸いにして今日までの間 続けられたのはそれなりの意味があったものと自負をしています。 『会議方式』には途中から職員を参加させた結果 一定に成果はあり彼ら自ら動き出すようになりました。 その中で彼らが如何に経営に関する知識と感覚がないかを知って5年前から取り組んだのが『ドラッカー教室』。 改めて理解できたのは、経営に必要なものは知識ではなく感覚であり天与のものがあることと、経営者諸兄にはそれが備わっていることでした。 但し、その天与の感性が働かない時があります。事業承継に係る局面では、社会の眼を見失っている場合があります。過日のパーティー時での私の提案は そのような思いから出たものでした。
開催が義務付けられている旧商法を拠り所に開始された小さな会社の取締役会は、お店の奥に続く台所兼食事処で毎月第2金曜の午後6時から行われた。出席者は全取締役3名中の二人(ご夫婦・・・残る1人は岡山在住のご子息) に私を入れての計3名。私の立場は会計助言者として・・・。
取締役会では「あれはどうなった・・・」「うん。上手くいった・・・」など大半が代名詞で始まり、当方にとっては意味不明。かくてはならぬと「あれ」と「うん」の内容をしつこく質問して理解に努める繰り返しであった。 「あれ」と「うん」は相互信頼の証。と微笑ましく受け取っていたが、(しつこい)質問で判ってきたことは 『「あれ」はそういう意味ではない!』 『「うん」と言ったではないか!』などの実態。 つまり確認せずに動いていることだった。都合の悪いことには互いに相手を思う気持ちから一生懸命に働くことだった。場合によっては真逆に一生懸命。という無残な結果と相成る。 そして、この小さな会社の取締役会は、松永会計『会議方式』の原点となる。 「コーポレートガバナンス」の波は大企業に止まらず、やがて銀行の融資判断基準などを通して中小企業に対しても波及してくる。 ガバナンスを支える意思疎通の可否は組織の生命線であり、成長する企業の条件であると信じている。
多くの社長が社内意思疎通の悪さを嘆いている。思い出してもらいたい。コミュニケーションの主導権は受け手にある。と本欄では何度も主張してきた。お嘆きの社長がコミュニケーションの受け手に転じたとき、その会社が変わりだしたのを何度も見てきた。転換に成功した社長たちはその原因を思い出すこともない。 チャンスはお嘆き社長の意思の下にある。
松永会計事務所 創業間もない頃、夫婦で営んでいる店に監査でお邪魔していたときの話。
突然言い争いが始まった。日頃はお仲の宜しいお二人だったので何事かと思う間もなく「勝手にしろ」の捨て台詞を残してご主人は飛び出して行く。「またア~。ほんとにヤダネ」と奥さん。何やら不穏の空気を引きずる中、監査も終わったところで「すいません」と奥さん。「どうされたんですか」と当方。「ええ。チョット」で引き留められ小一時間。要は「言った。言わない」のよくあるお話。ヤレヤレ、とお店を出てしばらく歩いたところで、勝手に飛び出したはずのご主人にバッタリ。「先生。いいところで会った」とは言っているがどうやら待ち伏せていたらしい。喫茶店に連れ込まれ、こちらでも小一時間。ようやく解放されての帰り道で考えた。よくある事ではないが何度か似たような経験はある。四六時中一緒にいる夫婦でさえこれだから、子供や店員との間はどうだろうか? 個人企業ではなく会社では? 等々・・・・・。 なんとかせねばなるまい。との思いに至る。
松永会計売りの『会議方式』はこれがきっかけで始まった。規模の大小を問わず、必要と思う会社に提案し、会議を取り入れてもらいだしてから30数年を超えた。当時から続けている会社も数社ある。 自分一人では広げるのに限界があるとの思いから、職員を同席させ経験を積ませてみたところ、5~6年前から彼ら彼女らが立ち上げた社内会議が出始めるようになってきた。
コーポレートガバナンスは大企業だけの話ではない。地域の中小企業にこそ必要だとの思いは募る。『会議方式』はその必要への解となりうると信じている。
昨2015年6月、東京証券取引所が「コーポレートガバナンス・コード」を導入。株主の権利確保や取締役会の責務など、社外との対話を促し経営者を律する指針を示した。時を同じくするようにガバナンスに絡む話題を提供する企業が出ている。 セブン&アイ、LIXIL, 三菱自動車、東芝、大塚家具、セコム等々。ことの発端は各社各様だが、根はガバナンスの欠如と事業承継に絡む不透明さが招いたもの。
コーポレートガバナンスの意味は「企業の不正行為の防止と、競争力・収益力の向上を総合的に捉え、長期的な企業価値の増大に向けた企業経営の仕組み」であるが、加えて「株主や銀行、債権者、従業員など企業を取り巻くさまざまなステークホルダー(利害関係者)が企業活動を監視して、健全かつ効率的な経営を達成するための仕組み」を含めて使われている。身近な中小企業向けに平たく言うなら「会社が市場や顧客などから信頼を得、成果を上げるためには、健全な経営活動のための組織作りに取り組みなさい」となる。
冒頭の「コーポレートガバナンス・コード」は上場企業対象に、この仕組造りのために社外取締役を任命するようにと指示したものであり、背後には時の政府の強い要請があったと言われている。
単純に上場企業対象だからわが社には関係ない・・・・などと思わないでもらいたい。大小を問わず企業の主要なステークホルダーである金融機関、取引先、従業員が抱く企業への要求に差はないからである。 厄介なことに、事例として挙げた企業は全て事業承継や後継者問題に端を発してコーポレートガバナンスを問われているからでもある。 『中小企業にとっての最大の悩みは後継者問題にある』は、多くに人々の共通認識となっている。 次号でも考えたい。
2ケ月毎の定期便で眼科医に通いだして8年が経った。長年の不摂生が仇となって発症した循環器系の疾患、派生して起きた眼の治療と観察のためである。歯科医以外の病院通いは初めての経験でもあり、様々な発見があった。以下はその個人的な感想。
中央の大型テレビを囲むように配置されたソファー。診察室に近いスペースには3人掛けの長椅子、目計算だが50人は楽に座れそうだ。時間帯をずらしての通院だが、待合室人口が30人を下ったことはない。本を読んだりテレビを見たり、ぼんやりと宙を見上げる者や隣同士のとりとめもない話声。まことに穏やかで病院待合室の空間とも思えない。自分を含め年配者は多く、推定平均年齢は60歳か? 話声の多くは付添人込みの二人ずれ。希に若者の姿はあっても何か場違いで影は薄い。まあ、齢を重ねれば目は悪くなるし、命にかかわる切迫性がなければ・・・こんなものかと妙に納得する。診察所要時間は概ね2時間半。この間の主なる行事は ①眼圧検査 ②視力検査 ③瞳孔へ点眼薬注入 ④ 瞳孔の状況検査 ⑤診察 ⑥次回診察の予約 ⑦会計 3分程度の診察以外はいずれも1分以内。当然のことながら私の名前は行事の都度診察室内に鳴り響く。絞り込んだテレビの音と囁くような話声の中で呼び出し声だけは元気がよろしい。聞き覚えのある名前もかなり呼ばれる。思わず読みかけの本から目を外すこともある。吉田茂氏には既に3名お目にかかっている。個人情報管理はどうなっているの?・・・などは余分なお世話か!
お詫びをしたい。前号の本欄で「言行」の『言』が『現』にいれかわり意味不明の言葉となってしまった。己の不注意と粗忽さを思い知らされまことに汗顔の至りです。
表題の言には中国の古典の中でしばしば出会う。3月の本欄でも「君子は豹変す」を取り上げている。では、君子とはいかなるものか、が今回のテーマ。
例によって『国語大辞典』・・・・「徳行のそなわった人。学識、人格ともに優れた立派な人」とある。YAHOOをのぞいたら『君子危うきに近寄らず』を孔子が言った言わないで論争を起こしていた。 恐らく孔子は言ってないだろうが、こんな話は残されている。高弟であった子貢が孔子に向かって『君子とは何ですか』と質問した。これに対し孔子は「言葉で表したいところをまず行動で示し、それから言葉でその行動を表現するような人を君子という―先ず其の言を行うて、而して後に、これに従う―(論語)」と答えている。 いわば『不言実行』である。口より先に手足を動かせということ。そのくらいの態度で臨んで、ようやく他人は「あの人は言うこととやることが一致している」と評価してくれるのである。『現行一致』である。
ところで『現行』は言うまでもなく「言葉と行い」であるが、中国人は伝統的に、人物を見定めるとき、現行を判断の基準にするといわれている。 つまり、偉そうなことを言っても行動がそれに伴なっていない人物を中国人は認めないと言われている。 『本音と建前』を使い分ける日本人に、中国人がいまひとつ信を置かない理由も判る気がする。
見知らぬ国や土地で、どうすれば現地に人と理解しあえるか。・・・・くらいのことはお分かりだろうが、いつの世でも、どこに行っても、人として信用してもらえるには、『現行一致』しかないであろう。くれぐれも「口舌の輩」などと言われぬように気を付けたいものである。
倉庫を整理していたら 懐かしや・・・・古い雑誌に使いかけのテレフォンカードが挟まれていた。町中に公衆電話が溢れ、あちらこちらに電話ボックスがあったのは何年前だったのだろう。正確なところは不明だが、携帯電話の普及とともに公衆電話は回顧の風景となってしまった。近頃の若者は親指で会話をすると揶揄された携帯電話も今やガラバゴス呼ばわり。つまりガラケーである。そして世はスマホ一色となり乗り物の中では無言の乗客の指先が宙をはねている。世の変化は誠に目まぐるしく、追いつけなければ世間に取り残される。世の中の需要を満たすのが企業の役割とするなら、激しく移ろう世間に合わせて変わり続ける宿命を企業は負わなければならない。変わることの大切さでもある。
倉庫を整理している時 古い事務所新聞の束が出てきた。 創刊・・・と いうほどのこともないが第1号は昭和58(1983)年。題字は「松栄会ニュース」となっていた。昭和63(1998)年9月からは「松永会計事務所新聞」となり、平成15(2003)年1月に【松永会計新聞】となって現在に至る。連綿と書き続けて足掛け34年。などとわかるまでかなりの時間を座り込んで読みふけっていたようである。読んだ記事の中では経営者諸兄に対し、変化への対応をくりかえし迫っている。 先月の『君子豹変』「朝令暮改」もその流れである。変化をするは私の信条であり、今後も同種の記事を繰り返すと思う。
さて、テレフォンカードをどうしよう。持っていても使う機会は来ないだろうし、そもそも使える場所すらないのかもしれない。持ち続けて骨董価値が出るものなら それもありだが・・・・
正確には『過ちては即(すなわ)ち改むるに憚ること勿れ』で、過ちがあったら、ためらうことなく、即刻改めることだの意味。孔子が門弟たちに諭した言葉である。この言葉には前置きがあり『君子、重からざれば即ち威あらず、学べば即ち固ならず、忠信を主とし、己に如かざるものを友とする勿れ』とも述べている。
君子は軽々しい振る舞いをしてはならない。威厳を失うばかりか学問すら進まなくなる。身辺には信義に厚い人を集め、自分より劣るものは遠ざけるべきだ。と かなり勝手な言い分だが、経営にあたる者には大切な心構えとして取り上げた。 孔子が説く『過ちては……』は、人間は過ちを犯すのものであるから、過ちを悔んだりする前にさっさと過ちを改めることが先決だ。の意味で使われている。
前段後半の『君子は……』以下の文意は、良い人に恵まれれば自分の過ちをきちんと指摘してくれる。それを素直に受け入れ即時に改めれば、人は自ずと大きく成長するものだ。の内容となる。
表題の同類語に『朝令暮改』『君子豹変』がある。前者は、朝出した政令を夕方には変更することを言うのだが、これが変じて安定しない、あてにならないこと。として使われる。後者は、君子が過ちを改めて善に移るのは、豹皮のまだら模様のように鮮やかに変化する。の意だが、転じて主張や態度ががらりと変わるこの無節操ぶりを非難する語として使われることが多い。共にネガティブなイメージで使われるが、変転目まぐるしい現代社会では必要な資質である。暮改・豹変ともにPDCAサイクルを機能させるためには必要なもの。但し周辺への心配りと丁寧な説明は不可欠となる。
平成23年開始の【松永会計・ドラッカー教室】は6年目を迎えている。
現行のテーマは『人と仕事のマネジメント』…… ヒト・モノ・カネに例えられる経済的資源の中で、最も活用されていないのがヒト。そのヒト(人的資源)を如何にして経済的な成果に結びつかせるかを、様々の角度から考えるのが内容。
ヒトには他の資源にはない優れた資質がある。調整し、統合し、判断し、想像する能力であるが、この優れた資質を利用できるのは本人だけである。働くか働かないか。いかに働くか。どれだけ働くか。全てを自らが決める。 最終的な決定権を握っているのは働くヒト(本人)だけであり、関わるあらゆる仕事において、ヒト(本人)は事実上絶対の存在となる。など 延々と続く。 まあ・・・組織(会社)が経済的な成果(結果=儲け)を得るのはその会社で働くヒト次第。 厄介なのは、成果を生むように働くか否かを決めるのは本人だけである。
成果を出すべく社員に働きを要求する経営者諸氏にとっては、まことに厄介な問題である。
私見だが、会社の良し悪しを測るものは、外見、経営者、決算内容ではない。そこで働く社員だと思っている。 同じ人が勤務先を変えたことで、見違えるようになった例をいくつも知っている。 導かれるのはヒトを作り出すのは会社。 会社が必要とする人材などいないと思うべきである。必要となるべく育つ可能性を持った只の人がいるだけ。 その只の人を会社が必要とするヒトに育てるのが会社であり経営者の力だと思っている。
数日前 某誌のコラムで「森鴎外の『阿部一族』を読み・・・・・」なる文面に出会った。遠いかすかなそして何故か少しばかりキナ臭い記憶を呼び起こされた気がした。それを確かめたくて早速駅前のT書店に出向いた。広い店内のどこへ行けばよいのかとキョロキョロしていると、「お探しでしょうか?」と店員から声を掛けられた。書名を伝えるとカウンターに行きすぐに戻ってきて「店内3ヶ所にある」との言葉を添えてメモを渡してくれた。 階数・棚列番・棚番号が記されたメモから文庫本フロアーに向かい、列・番を頼りに目的の書籍を手に取った。
その場でページを繰り読み始めたが、一向にキナ臭い記憶は蘇らない。但し ルビだらけ注解だらけの文面を10ページほど読み進むうちに、《ああ、これは肥後の国での仇討ち物語》との記憶が戻り、買い求めて自宅で読み終えた。内容は単なる仇討ち物語ではなく複雑な内容を持っていた。
すっきりしないまま、再度読み返している際に『阿部一族』が10歳離れている長兄の蔵書であったことを思い出した。将来を嘱望されていた長兄は、陸軍士官学校在校中 演習時の事故に起因し17歳で世を去った。深い嘆きに暮れる母は長兄の思いが残されている部屋への入室を禁じたが、当時(7歳)活字に飢え ルビを頼りに手当たり次第に家中の本を読んでいた私は、密かに長兄の部屋に忍び込み蔵書を読みふけっていたことを思い出した。
『阿部一族』の書名がキナ臭い記憶となったのは、何故かこの本だけに2ヶ所の折り込みと書き込みがあった覚えと、母の深い嘆きが重なったせいだろう。 それにしても老成(ませ)てたガキ。
東海税理士会所属 |
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