「所長のこらむ」令和6年

このページは、松永会計事務所新聞の「所長のダンディーコラム」を掲載しています。

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なぜ、だれも予測できなかったのですか? R6.11

表題は、今朝(1024)の朝日新聞一面 天声人語欄の書き出し部分です。

リーマン・ショックから間もない2008年の秋、英国のエリザベス女王が経済学者たち(他に中央銀行幹部・経済関係官僚) に 表題の疑問を尋ねた。 が、誰も答えられなかった。 つまり 間近に迫っているはずの危機(リーマン・ショック)について、その道の専門家である彼らの中で誰一人として 気付いている者はなく 或いは 予測していた者もなく 答えることができなかった…というお話。 記事には後日譚が続く。 8ケ月後 彼ら33人は連名で反省文のような書簡を女王陛下に送った。 内容は、近くに迫っている 金融危機の予兆を見落としたのは、それぞれの「傲慢さと考えの甘さ」だったと認めて説明し、原因を縷々(ルル)記したもの。  文面の最後は「女王陛下、要するに 多くの聡明な人々が全員、システム全体のリスクを理解する想像力に欠如しておりました」と まとめている。・・・・このように記事を長々と引用したのは、松永会計事務所も創業後 40年を超え、次なる世代に引き渡すためには、時代の変化をどのように受け止め 且つ タイミングよく行動することに気を置かなければなるまい。

『兄弟姉妹』 R6.10

遠い昔、太平洋戦争の最中、帝国海軍の職業軍人であった父親の仕事柄から横須賀市に居住していた松永家では、母子家庭さながらの6人家族で暮らしていた。構成は、私を真ん中にした兄弟姉妹セットに母親を加えた6人である。父親の仕事柄 居住していた神奈川県横須賀市長浦町の我が家の子供部屋を思い浮かべた。

父親は艦上勤務が主で、国際親善のためにか、宮様方の外国訪問のお供も多く 年に数回、我が家に戻ってくるとき以外は留守を重ねる父親。 一家の憧れの存在であった次兄も陸軍士官学校に在籍中で、年に数回の帰省時以外には面会することも意に叶わず、当時としては当たり前すぎる『銃後を護る軍人一家』としての暮らしを重ねていた最中、昭和17年、旧満州国での士官学校卒業に絡む訓練中の事故によりチフスに感染し長兄は命を失う。戦況が理解できる立場にいる父は、戦時基地が集中する横須賀市の危険を思い母の実家がある焼津市への転居を行ったが、終戦(正しくは敗戦)を真近に 更に藤枝市(当時は町)郊外の瀬戸ノ谷村一ノ瀬に再転居(疎開)をする。兄は一人 横須賀市に残り留守宅を守り続けた。どこにでもいた戦時風景である。

『ホコリ被りのゴルフバック』 R6.9

 我が家の玄関口 長いこと 下駄箱の上にゴルフバックが2体 鎮座している。近時 ゴルフに用件はない暮らしを送っているのに何で?  そこは 記録が生業(なりわい)の身分。確か パソコンに記録を残してきた記憶がある……と 早速キーボードで探したら・・・・ありました。タイトルは【スコア記録】。最初の日付は昭和56101日・・・・今の仕事を始めたのは昭和5410月なので、開業後2年でのゴルフ開始となる。第1回のゴルフ場は『浜岡』スコア152。 最後の日付は令和21022日 『富嶽』スコア120とあるので 僅か4年前。 改めて記憶力の衰えを自覚させられる。

プレイの回数は最初の5年間で17回 年平均4回弱。ところが 平成5年は13回。7年は32回。間もなく週1回ペースの60回以上へと進む。ただし回数の割にはスコアは伸びず、基本3桁。時々2桁。楽しみは共にしたいとの名目から、親しい同業友人のM君を誘い込み、その頭文字を使った宮様コンペは、ネーミングが功を奏し回数を後押ししてくれた。さらには妻の陽子も仲間に入れ、ついには 海外でのプレイも取り込んでの楽しみを満喫させてもらった。最後は令和21022日 関与先のコンペへの参戦で スコアは120。 記録に残されている総回数は989回。あと少しで1000回の大台に乗るのだが・・・・あ~ア 楽しかった思い出。バックとの別れはいつになることやら・・・・   

 多分・・・・で 申し上げますが、松永会計では関与先企業の決算時に翌期(・・・既にスタートしている)もしくは 中期(3~5事業年度分)の経営計画書作成を提案し作成して、決算書類の一部として添付しています。 ところが 翌期計画書を読み上げ説明を行った・・・・その後の雑談の中で よく出てくるのですが「せっかく 計画書を作っても その通りならないから意味がないのでは・・・・」という類のお話をしばしばお聴きすることがあります。(ここからが本番です)私はそう考えません。何故なら経営者が将来に向けて こうなりたい。こんなことを実現させたい。と 思っていること 或いは願っていることが基本となって企業の成長は始まる からです。社長の その言葉によって会社は方向を定め社員をはじめとし 関係する者は行動を起こすからです。社長として発した言葉の多くは実現しないで終わる 或いはその一部分しか達成できなかった。のがほとんどです。ですが 社長の思いは社員をはじめ関係者には通じてゆきます。

極めて まれではありますが、社長の言葉通りに計画が実現したケースもあります。 が、その社長の本心は別にある・・・と 私は思っています。つまり実現できそうな計画を立てたが、その本心はもっと高めに存在している。つまり 社長は本心を隠し現実に妥協している。が私の気持ちです。

近くにある企業の成長は願いです。だから(計画は外れるから役に立つ) です。

『 読む 』 R6.7

子供の頃…小学校(正確に言えば当時は国民学校)入学前から漢字を含め 活字には相当以上に馴染んでいた。 朝早く起きて 新聞の来るのを待ち、届いた新聞(当時は・・・多分:読売新聞)を開き、自分にも読める ひらがな・カタカナ・漢字を読み上げながら、朝食をとるテーブルまで運んでいた・・・らしい。 覚えていないが、母親や兄 姉たちがそう言うのだから ・・多分 そうだったのだろう。 現状は如何?・・・・未だにそのクセは抜けず、 朝の起き抜けに玄関口に出て3種類(朝日、しずおか、日本経済)の新聞を取り込み 見出しなどを読みながら 朝の食卓

まで運び、読みながら ついでの朝食が習慣となっている。 結婚したての頃・・・ 食卓での女王様が異を唱えたが、読みながら食事を辞めた代わりに読みたい欲望から、超スピード食事に変わった為・・いつしか異議は蒸発した。以後 このパターンは幾度か繰り返されたが、間もなく我が家の朝食スタイルとして定着することとなった。

就寝時には枕元に数冊の本を積み上げて寝につくこの習慣・・・・クセか? は最近変わりだし、数冊の本から数冊の雑誌へとなってきた。 なんでそうなったのかは不明であるが、どうやら視力の衰えが原因して読んでお終いに変わりだした・・・読書姿勢に原因がありそうだ。ココロせねばなるまい。気が付けば題名も思い出せない書籍が小山をなしている。

円高 OR 円安 R6.6

本日(5月25)付 日本経済新聞 朝刊19面の「為替」欄見出しでは『円続落、1570406銭』…とあり、他にも円安に絡む記事が幾つか散見されている

現在より10年ほど前での円相場は 1ドル=75円に近い価格で 円高の弊害を語る 声が語られていた。 75円から150円になって、円安 エンヤスと言われても75円が150円になって、どうして安くなるのか……太平洋戦争終結後(正しくは敗戦後) アメリカの統治下(これも気に入らない…正しくは占領下)にあった当時は1ドル=360円に固定され、その時代を通り抜けてきた世代には、どうしてもピンとこない。

75円から150円になって、なんで安くなるのか…正しくは円高ではないのか。  この感覚が邪魔をして、その都度 1ドルを買うのに75円支払えばよかったのが150円も払わないと1ドルが手に入らない。だから、75円支払えば1ドルが買えたのに、今は150円支払わなければ1ドルが手に入らない。だから150円は75円より安い。と 何度も自分に言い聞かせないと、エンダカエンヤス論議にはついてゆけない。

ドル価格が100円近辺で上下していた数年前に、勧められてドル預金を購入した覚えがあるが、手元においても一向に値上りしなかったため、直ぐに手放した記憶がある。何事も根気よく物事を見つめ 結果を手に入れる 根気がないと、結果を手にすることは難しい。ムズカシイと言い聞かせたが、なおもムズカシイを繰り返す  己の弱さを知らされ続ける来し方であった。

『キョンボー フンボー』 R6.5

私のもっとも古い思い出話。

父親が帝国海軍のそれなりの地位に居たのに伴い、我が家は全国に点在する海軍基地を巡って引っ越しをしてきたらしい。記憶に残るのは 当時 横須賀鎮守府(…)が所在していた神奈川県横須賀市長浦町。覚えているのは、我が家の入り口に存在する桐の大木(幼心にはそう感じられた)と子供部屋から手を伸ばせば届く場所に育つ柿の樹それに裏庭に育った栗の樹。以外は記憶に薄いが、農家出身の父親は在宅すれば 丹精込めて庭の手入れを重ねる後ろ姿が記憶に残る。父親は昭和19年に病没したが、後日 母親の愚痴話によれば、久しぶりに帰ってきても、子供たちを抱き上げるより先に庭の手入れをしていたそうだ。  話が逸れ続けた。本題に戻る。海軍の街横須賀市では水兵や下士官クラスでは うっかり街中には出られない。出て 前方から自分より上級の士官が来れば 直立不動で挙手敬礼をし続けなければならない。そのような状態を思いやったのか、部下の方々が泊まれるようにと我が家には八畳間が用意されていた。食事を共にする機会も多く、膝に抱えられて食事をしている様を思い浮かべる。フンボー はその様な場での私 文宏の呼び名。キョンボーは四歳上の姉恭子のこと。その頃の私は就学前の4~5歳か?  私の酒に対する修業は当時から始まったのではないかと思う。ひとり酒のほろ酔い時に ぼんやりと思い浮かべるのは、居心地の良い方々の膝の暖かさである。

『数値記録』 R6.4

職業柄、数字には敏感だ。

枕廻りにはいつも血圧記録表が置いてある。記録内容は起床時と就寝時の血圧値上下と脈拍数。余白には毎朝の体重、最後尾には当日の歩行数。これだけの数値を書き込めるようにしている。

一枚の用紙には20日間の記録。更に医療に関するメモ。そして通院先等。これらの数値に、幾つかプラスマイナスをすることもある。

数値は一週間ごとにチェックする。

週末には、一週間の歩行数の合計。更に期間の最高脈拍数にマーク。一週間の合計脈拍数等々、気になる数値を記入した後、気になる各種数値の関連性を見るなど、記入後のひとときを楽しんでいる。

数字に敏感であるがため、当初は色々と気にして書いていた数値だ。

しかし、今では計測した数値を遊んでいるだけである。必要以上に数値に怯えたり、気を揉むこともなくなってきている。

そもそも毎日計測する習慣もなかった。健康記録など面倒な事この上ないと思っていた。それでも記録されていく数字は見ていれば面白い。目で見ても分からないことが無機質な数字に表れている。

『・・・・・  。句点』 R6.3

ずっと使ってきたのにひどいじゃないか。 句点に言葉が話せたら、そう訴えられるかもしれない。   

朝日新聞216日朝刊「天声人語」欄 にこんな書き出しで「はい。」「承知しました。」などと句点で 終わる連絡文は、怒っていると受け取られる「 。マルハラスメント」だとネットで話題になった そうである。  当該「天声人語」欄の担当者は50歳代だとのことだが、ご自分のスマホの履歴を確かめたところ、若者世代あてでも普通に句点をつけていた。 が 相手からの文には一切ない。これが世代間ギャップかとショックを受けた。 日本だけの現象なのかと気になったので(さすが:新聞記者)、欧州や東南アジア、南米の知人の知人に聞いてみた(これこそ:新聞記者)。 どうやら「句点なし」は、他言語圏にも共通する傾向のようだ、とのこと。20代の英国人女性は「メッセージの吹き出しには必要ない。送信ボタンを押すのが句点の代わりだ」と話す。冷たい、権威的、機嫌が悪いなどの印象は日本と同じ。文末は句点なしか、ダッシュ()が多いという。感嘆符()の文末も20代の彼女には好印象だが、10代には圧を感じて不評だとか。改まったメールや上司から来たメッセージの返事には「真剣さや正式な感じを出すため」に句点をつけるそうだ。 

『句読点おもしろ辞典』には高名な国語学者が、目上の人への手紙で句読点を使うと失礼になる。と 説いている。読みやすいようにと指示する行為だから…だそうである。

ここまで書いて、礼儀だとか失礼だとか、毀誉褒貶に晒される句点が気の毒になった。日々世話になっている身としては、これまで通り使わせてもらうと思う。と締めくくる。以上。

片足立ち R6.2

テレビ画面は「強烈寒波来襲 横殴りの吹雪 と題して、お正月を過ぎてから東北地方や北陸地方など日本海沿岸地域を襲っている冬将軍お出ましニュースを繰り返している。 アナウンサーに切迫した声色でいくら叫ばれても、ぬくぬくと暖かい静岡で しかも暖房のきいた室内に居ながらテレビで雪景色の画面を見ている当方にとっては、所詮は他人事。 いくら冬の寒さを語りかけられても実感を伴わないので、「そうか、そうか」でおしまいとなる。

若かりし頃・・・・今でも 十分に若いが、もう少し若かった頃の思い出話。・・・・岐阜県の中津川市というところに勤務していたことがある。 名古屋市からは長野県方向に向けて走る中央西線…当時のドンコウ=普通列車で約2時間かかる長野県との県境にある岐阜県最東端の街である。 なんでそんな場所に行くことになったのかといえば、若気の至り……当時のぼせていた……山登り から 高山市に転勤希望を出したところ、同じ岐阜県のうちだからと転勤命令が出され、上司からも高山市のある岐阜県に行けてヨカッタ良かったと激励される有り様。 転勤して判ったことだが、転勤先は同じ岐阜県であっても旧美濃の国 しかも高山市がある飛騨の国からは遠く遠く…トオ~ク離れた岐阜県の最東端 すぐ隣は長野県となる。とにかく冬になると寒い。近くには寒天の産地もある。なんで寒さの説明に寒天が出るかと言うと、海藻を寒空に晒し 水分を凍らせて飛ばす方法で寒天は出来上がる。並みの寒さでは寒天は仕上がらない。 なんていうことも覚える始末。

タイトルに戻る。冬場の中津川ではあまりの寒さから、プラットホームで待つ人たちは片足を上げて列車を待つ。両足同時にしびれたら歩くことができなくなるからである。

君子に九思あり(論語・季氏篇) R6.1

困ったときの論語頼り・・・・  そもそも君子って何者??から・・・  

論語の限らず中国古典には君子がやたらに出てきます。徳行の備わった人。儒教の道徳を身に付けた教養人等々諸説ありますが、ここは大雑把に尊敬に値する立派な人でまとめましょう。

     

君子には、絶えず念頭に置いて考えることが九つある。  如何に箇条書きしてみる。

 視るには明を思い・・・物事を視るときはその核心に迫るまではっきり見るようにする

 聴くには総を思い・・・聴くときにはその話の核心を聴いてそらさぬ

 色には温を思い・・・顔の表情は絶えず柔和で温かみを失わない

 (カオ)には恭を思い・・・態度は誠実さ第一で臨む

 言には忠を思い・・・発言には責任を持ち

 事には敬を思い・・・行動は絶えず慎重に行う

 疑わしきには問いを思い・・・疑問を感じたらそのままにせず疑問を晴らす

 怒りには難を思い・・・怒りの感情が出たら他に迷惑を及ぼさないように

 得るを見ては義を思う・・・利得に関しては義に合うかをよく考える

   

  ここに書いた9つの箇条書き。実は十年前にも一度書いています。覚えている方がいるとすればかなりの記憶力。書いた当人も遠い記憶となっているところ、改めて君子は良い言葉を残してくれたものだと思い、新たな年にひとつくらい忘れずに日々を送りたいと思う。

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